【中/日】NewType 96年6月号 EVA决定电影化纪念特别访谈 EVA电影制作决定时

Newtype1996年6月号

EVA,再次尝试

新世纪福音战士 庵野秀明特别访谈

《新世纪福音战士》在动画界的大海中掀起了十数年未见的大浪。

《机动战士高达》的第一个系列开播至今,已经过去了17年。为了观看《宇宙战舰大和号》以及《银河铁道999》这样的动画电影,电影院因青少年而满员的时代,换而言之就是动画热潮在1980年达到顶峰前后的2~3年,NT现在的读者大多应该还没有出生,或者最多也就还是婴儿。

在当时,只要是青少年,谁都毫无抵抗地接受了动画。可是,在那之后,即使在青少年之中,观看动画也成了件“特别的事”。

尤其是在80年代中期,OVA被“发明”出来之后,动画为了迎合粉丝们的需求不断细化,回过神来的时候动画已经成为了“普通人”不会去观看的类型。

当然《美少女战士》和《龙珠》这样的作品还是很有人气。不过充其量只是“给小孩子看的东西”。

当然暑假时宫崎骏(或者是吉普力工作室)的作品也能在剧场里聚集一般观众,不过这也不过是作为“即使在约会时去看也不会感到害羞的电影”而观看的,绝不是“为了动漫迷而制作”的作品。

为了动画迷而制作,然而让“普通的客人”也能说出“好厉害!”的作品……我们一直翘首盼望着这样一部作品的诞生。

于是《福音战士》出现了。

不仅是动画迷,“普通的孩子们”、“对先端文化敏感的大人们”乃至“时隔10年再次回归动画的原动漫迷们”,《EVA》受到了这些人的狂热支持,即使在TV放送已经结束的现在,其运动依然在不断扩展之中。

谜团还未解开就迎来终结,从毁誉参半的最终回结束算起已经过去了一个月——我们对时间表终于回到日常庵野秀明监督进行了访问。

“现在感觉怎样?——就一个字‘累’(笑)”

如此说道的庵野监督,一边慎重挑选着措辞,一边打开了话匣子。

“《福音战士》的作业是一种即兴演出的感觉。无论是故事的构成还是人物的配置,都没能有条理地去做。一边进行着作业,一边听取着各种各样的意见,自己分析着自己的心理,之后才发现‘原来是这么一回事啊’。最初仅仅是想制作一部单纯的机器人动画,但是如果以学校作为主要舞台的话,就和别的机器人动画没什么两样。于是,做成了像现在这样拥有学校与组织的两重身份,包含着两面性的主人公。最初的时候,其实并没有考虑得太深。之后随着STAFF不断地加入其中,就像是在即兴表演时,不知是谁的吉他发出了第一个音符,架子鼓和贝斯也以此为开端发生了变化,《EVA》就是在这种即兴表演的氛围中存在着的。演出结束之刻便是放送完结之时。因此,前一话的脚本没有完成的话,下一话的脚本就无法开始。比普通的作品更花时间。脚本写完之后,如果回过头与前面的内容进行验证时,发现有‘啊,果然这里不对’的地方,再在绘制分镜的时候进行修正。正因如此,那个最终回虽无限接近最终回却没能达到。”

归根到底,《福音战士》这部影片,是由故事层面,以及庵野监督自身心灵历程的直播纪录,这两个侧面构成的。这是以他内心“不想对自己想做的事情撒谎”这种强烈意愿的形式而显现出来的。

庵野监督通过与《EVA》相关的事,直面自身的“心理问题”——

“主人公被设定为14岁的理由,是因为这是个‘孩子以上,大人未满’的年纪。能靠自己一个人活下去,也能依附于他人而活。如果是几个世纪前的话,马上就要进行元服了。因为那时人生不过只有50年,14岁不得不开始独立。但现在人的寿命能超过70岁,日本的话就算是20岁成人以后,依然有很多人依靠着父母生活。虽然或许也有父母希望被依靠的因素在里面,毕竟父母无论何时都希望孩子陪在身边。包含着这些理由,我认为14岁这一作为在精神上有独立可能的年龄,很适合这部作品的主题。”

“说到即兴性,虽然人类补完计划从第2话起,就作为故事的主线出现了,但究竟要补完些什么却还没有决定,仅仅是字面上的虚张声势而已(笑)。人口减半这虽然是《EVA》世界的设定,但以置换论【置き换え论】来说,实际上人口减半的世界正是动画界。无论是动画业界还是动画粉丝都是这样,明明过去还是很兴盛,现在却人口一下子减少,逐渐变小、封闭起来的的世界,在我看来这正是动漫界的写照啊。”

 

 

这样说来,庵野监督在2、3年前曾经做过这么一个比喻。《高达》的世界是富野由悠季监督的内心世界,想要解放困在太空殖民卫星这一闭锁的世界(动画会社)里的人们,像堂吉诃德一般奔跑着的夏亚,正是富野监督自身的置换。按这种说法,《EVA》的世界就是非军事业余集团NERV = 以庵野监督为中心的GAINAX,挑战连职业军人也无法打破的闭塞世界……以这样这样置换的方式来看的确十分有趣。

“是这样吗?不过,怎么看NERV的确就像是个业余集团呢。虽然有着军队的形式,但并不是军队,也没有要成为军队的想法。本来动漫杂志就不知为什么把美里贴上了‘有才能的军人’这一标签,我就觉得很奇怪,那种哪里算是有才能呢?如果这也算是有才能的军人的话,可真是对不起军人了啊。怎么看都尽是漫无计划、些乱来的作战啊,全部都是运气好而已。真正提出过一些正经作战计划的反倒是律子。——关于美里,她是一个兼具着主体与客体的存在,就角色的设置来说,有着和现实世界的我相近的部分——在之前的NT(New Type)2月号上,结城正美先生曾把第7话作为例证而拿出来讲,即使没那么直接,不过相近的意思对NERV来说还是存在的。”

即使在这里,庵野监督的内心世界依然与2015年的第3新东京市同步着。归根结底,人烟稀少的城市 = 动画界,因想要观看《EVA》的移民们的流入,虽然只有一点点但开始变得热闹起来了。

然而在另一方面,在庵野监督的心中,针对一部分动漫迷的失意感却加深了,这也是事实。——

所谓“人类补完计划”,诚然是一个SF(Science Fiction)术语,但它的真面目正是我们现代人“欠损心灵的补完”……对于这种新鲜的概念,老实说我们无法掩饰它所带来的震撼。节目开始时并未想定的“人们欠缺之物”,在其确定为“心灵”这一形式的过程中,监督的心中经历了怎样的矛盾?

“关于心的问题,虽然并没有完完全全明确地意识到,但日本和美国的一部分几乎被物欲所填满了。我认为正是因为心中有了余裕才会产生问题。因为,如果是苦恼着‘明天的食物该怎么办’的人,是不会去考虑‘自己被他人讨厌了怎么办’这种问题的,他只会想着如何拼命活下去。因而解决了温饱的今天,心理问题就成为了主题,《EVA》的制作最终也是朝着这个方向去的。虽然由于各种各样的理由言而未尽,关于原来故事上的25、26话(最终话),25话完成到剧情架构阶段,26话则是在架构阶段就废弃了。在明年发售的录影带和LD里,我会重新制作本来的25、26话【呵呵】,不过对于26话则是在影像上的再推敲。不过要是想不出来的话,就会把那个故事架构分解重新做一遍。在TV上放送的那个25、26话,最直接地反映了我当时的心境。因此我心中对此很满足,完全不感到后悔。”

3月4日。在《福音战士》25话的后期录音结束后,还剩下最终话26话的收录未进行的STAFF、CAST,在位于东京大久保的录音工作室TAVAC的附近,举行了一场“庆功宴”。

“那个时候,最终话的脚本还没有完成,而第二周就全部做完了哦,实际的作画作业时间只有3天。其实,就表达来说我觉得甚至连画都没有必要去画,事实上,就这么让我出现在画面上说话也不错。本来这应该是行得通的,不过果然还是被拒绝了。关于使用分镜的画来代替赛璐璐画的部分,那是我们故意为之,并不是因为时间不够这种问题。总之,就是以从赛璐璐动画中解放出来为目标的。赛璐璐什么的,就仅仅是记号论而已。只要用马克笔画出明日香的画,再加上宫村优子的声音,那就已经是十二分的明日香了。对于拘泥于赛璐璐这件事本身我已经感到厌恶了。话虽如此,也不是指用CG来制作就行了的意思。我是想说,动画作为表现的媒介,只要有线画就能发挥机能了。对于喊着‘因为不是赛璐璐所以不是完成品’、‘不是赛璐璐所以一定偷懒了’这样话的傻瓜们,我借此有话要说而已。这是一种解放,不管怎样先将自己原先拥有的固定观念破坏掉。‘不是赛璐璐人物的话就不能作为人物去认识’,当越过这条路时,就已经成了恋物癖了……。最初的尝试是在16话,让‘线’说话的时候。由于动画单纯是由记号组成的东西,从最初的时候起就是一个虚构的世界没错吧,谁都不会把它当成纪实片来看。但是,想在影片中加入纪实性——这就是与我相符的即兴感觉。要用TV动画去破坏记号论的方法很不常见对吧,当线画出现的时候,被业界的一部分人说成这是在偷懒,其实当把这个手法看做是偷懒的时候就已经没救了。他们没有注意到那是以一种‘表现手法’为目标,不如说他们连这样的观念都不存在。本来最终话就没有超出语言游戏的范围。虽然就方法论来说,我也觉得还有其他选择……”

对于26话,一部分核心粉丝提出了否定的论调。当然,因为没能描写本来的故事这个理由,有感到不满的粉丝存在固然是事实。听说在电脑网络上,也引发了众多激烈的“口水战”。然而另一方面,这个最终话却也记录到了《EVA》的最高收视率,从一般不看动画的观众那传出了“福音战士真厉害啊!”这样的评论也是事实。

“使用网络通信的人,有很多都是头脑顽固的人。明明只是缩在自己的房间里,却有一种全世界无处不在一般的感觉。不过,那只不过是些‘信息’而已,明明只是无法证实的信息而已,却好像自己无所不知一样。这种良好的自我感觉就成了陷阱,以至连面对信息的价值观也麻痹了。还有就是隐秘性。例如如果有人指名道姓地说‘庵野什么的去死就可以了’,要是那家伙在我旁边的话我或许就去揍他了。如果是在网络说的这种话,虽说通过网络通信也会有反驳,不过像这种‘厕所里的涂鸦’,根本没有署名的必要。就这样不断在自己的房间里重复着这种事。就系统来说是很方便,奈何使用的人毫无无节制。当然使用网络通信的人,也并不是都这样。不过,要分辨到底哪些人才是正经的实在是太麻烦,所以我至今也没有功夫去介意网络通信。可是我还是想说:稍稍了解一点世事,回到现实里来吧。比方说25、26话要重制这件事,已经在网络通信上从GAINAX流传出来了。如果不放出正确情报的话,任凭模糊不清的情报独自流传,就会不断出现‘这是拜金主义’这样牛头不对马嘴的评论,搞得就像懂经济理论一样。自以为这么说就是正义,其实连自己的伪善都没有注意到。相比较而言,我认为《福音战士》除了对这个的否定要素之外就别无其他(笑)。就是因为没发现其实自己的想法是极其幼稚的,动画迷才会被当做笨蛋来对待。这都是不走出自己的房间而造成的,只躲在安全的地方。在动漫迷的心中,没有任何真切的东西,所以才会向动画求救。虽然不是寺山修司【日本诗人、剧作家】的《把书丢掉来到这个城市》这样的话语,但走进城市和各种各样的人接触还是必要的。至于为什么我能说这些话,那是因为我已经注意到了我自己的心中什么都没有。21年间一直作为一个动画迷,到了35岁才终于察觉到这一点,我也是个相当的笨蛋啊(笑)。”

虽然很遗憾,但由于篇幅所限本次特别访谈到此为止,想要询问的问题、应该要说的话还远远没完。NT今后也计划多次对庵野监督进行访问。下期将计划以别册附录的形式,再次把监督的话语刊登在杂志上。

如果你有想对监督说的话,希望能以明信片或是书信的方式联络NT。即使那是质问也没有关系,感想或是批判一概接受。只要有着在杂志上“对话”的意识的话,监督一定对其作出回应(注)。

(注:这一企划并没有实现)

(tmucpqrs tieba.baidu.com/p/1897241253)

EVA、再擧

新世纪エヴァンゲリオン 庵野秀明スペシャルインタビュー

 

「新世纪エヴァンゲリオン」は、アニメ界という海に10数年ぶりに発生した大波である。

 

「机动戦士ガンダム」のファーストシリーズがオンエアされてから、すでに17年が経った。「宇宙戦舰ヤマト」や「银河鉄道999」というアニメ映画を観るために、ティーンエイジャーが剧场を満员にした时代。いわゆるアニメ・ブームは1980年をピークに前后2~3年。现在のNT読者の多くは、まだ生まれていないか、せいぜい赤ん坊だったはずだ。

 

当时は、ティーンエイジャーなら谁もがアニメを抵抗无く受け入れていた。しかし、その后、ティーンエイジャーでありながらアニメを観ることは「特殊なこと」になっていった。

 

特に、’80年代半ば、OVAが「発明」されると、アニメはファンのニーズに合わせて细分化を重ね、気がつくと「普通の人」が観ることの无いジャンルになってしまっていた。

 

もちろん「セーラームーン」や「ドラゴンボール」は人気がある。でもそれはあくまでも「子供たちのためのもの」だ。

 

もちろん夏休みには宫崎骏(あるいはスタジオジブリ)作品が一般客を剧场に集める。でもそれは、あくまで「デートで観に行ってもハズさない安心して见られる映画」として観られるわけで、けして「アニメファンのための」作品ではない。

 

 アニメファンのために作られて、そのうえで「普通のお客さん」にまでスゴイ!と言わせる作品??そんな作品の诞生を私たちは待ち望んでいたのだ。

 

そして「エヴァンゲリオン」。

 

アニメファンだけでなく、「普通の子供たち」や「先端カルチャーに敏感な大人たち」、そして「10年ぶりにアニメに帰ってきた元ファンたち」の热狂的支持を受けた「エヴァ」は、TV放送が终了した今もなお、そのムーブメントを広げつづけている。

 

谜が谜として解明されないまま终了し、賛否両论を巻き起こした最终回からひと月-ようやくスケジュールが日常に戻った庵野秀明监督に话を闻くことが出来た。

 

「今の気分ですか?―――疲れてます(笑)」

そう言いつつも庵野監督は、慎重にことばを選びながら語りはじめた。

『エヴァンゲリオン』の作業ってライブ感覚なんですよ。ストーリーにしろキャラクターの配置にしろ、理屈でやってなかったんです。作業をしながら、いろいろな意見を取り込んで、自分で自分の心理を分析して“あっこういうことか”と。ことばを後から見つけていきました。最初は単純なロボットものにしようと思ったんです。でも、学校がメーンの舞台になると他のロボットものと変わらなくなっちゃう。そこで、学園と組織の2つのID、二面性を持った主人公にしよう、と。あんまり深く考えてないですよ、最初のころは。それがだんだんスタッフが加わり、アドリブで誰かのギターが鳴りはじめたらそれを受けてドラムやベースが変わるように、『エヴァ』にはライブ感覚が生きてきた。演奏が終るのは放送が終るとき。だから、前の回の脚本が上がらないと次の脚本に入れない。通常の作品より時間がかかるんです。脚本を書き終って、前に立ち返って検証したとき“ああ、やっぱりこれ違ってる”と思ったものは絵コンテで直してゆく。だから最終回は、最終回が近づくギリギリまでできなかったってことなんです

結局、『エヴァンゲリオン』というフィルムは、物語という側面と、庵野監督自身の心の旅のライブ?ドキュメンタリーという、2つの側面から成り立っている。それは、「自分自身のやりたいことに嘘をつきたくない」という、彼の強い意思の反映という形で現れているのだ。

庵野監督は、『エヴァ』に関わっていくことで、みずからの「心の問題」と直面することになったのだ――。

主人公を14歳にした理由は、“子供以上、大人未満”だから。ひとりでも生きられるし、他人(※ひと)にすがっても生きられるんですよ。何世紀か前だったら、もうすぐ元服ですね。そのころは人生50年しかないから14歳くらいで独立しないと。今は人生70年以上ありますから、日本人なら成人の20歳になっても親に依存している人はいっぱいいるわけです。親に、依存させられているのかも、という問題もありますけど。親のほうが、いつまでも子供でいてほしい、というね。そういうのも含めて、14歳は精神的には独立可能な年齢として、この作品のテーマに適当だと思います

即興性(※アドリブ)ということでいえば、2話で人類補完計画という、物語の縦軸になることばを出したけれど、何を補完するのか決めていなかった。字面のハッタリだけです(笑)。『エヴァ』の世界って人口が半分になっているけれど、あれは置き換え論で、実際に人間が半分になっている世界というのはアニメーション界のことなんです。アニメ業界もアニメファンにしてもそうだけれど、昔は勢いがあったのに、人数がドッと減ってしまって、細々となっている閉塞された世界っていうのは、アニメだと思います

そういえば、庵野監督は2、3年前、こんなたとえ話をしたことがあった。『ガンダム』の世界は富野由悠季という監督の心象世界で、スペースコロニーという閉ざされた世界(アニメ会社)にいる人々を解放しようとドン?キホーテのように奔走するシャアは、富野監督自身の置き換え論だ、と。それなら『エヴァ』は、閉塞した現状を打破できないプロの軍人がいる世界に対し、素人集団ネルフ=庵野監督を中心とするガイナックスが挑む話…というように置き換えて見るとおもしろい。

「そうすかネ。まぁどう見てもネルフって素人集団ですから。軍の形式っぽくしてるけど、軍じゃないです。軍隊にしたくなかったんです。だいたいアニメ誌なんかがミサトのことを“有能な軍人”とか書いて枠にはめてしまうから、おかしくなると思うんです。あれのどこが有能かなぁと思っちゃいますよ。あれで有能な軍人なら、軍人さんに申し訳ない。どう見ても行き当りばったりの作戦ですよ。全部まぐれ当り。まともな作戦らしきものを立案してるのはリツコだけです。――ミサトに関しては、客体と主体を兼ねている存在で、配置としては現実世界の僕に近い部分があります――以前NT2月号で、ゆうきまさみさんが7話を引き合いに出して描いていましたが、あそこまでストレートでないにしろ、似たような意味がネルフにはあります」

ここでも庵野監督の心象世界が、2015年の第3新東京市にシンクロしている。つまるところ、人影のない街=アニメ界は、『エヴァ』を見たいという移民たちの流入で、わずかばかりにぎやかになった。
しかし、その一方で、庵野監督の中に、一部のアニメファンに対するフラストレーションが高まっていったのも、事実である――。

「人類補完計画」という、いかにもSF的な用語(※ターム)。その正体が、私たち現代人の「欠けている心の補完」だった…という概念には、正直新鮮な驚きを隠せなかった。番組スタート時点では想定されていなかった「人に欠けているモノ」。それが「心」というカタチに落ちつくまで、監督の中でどんな葛藤があったのだろう。

心の問題については、はっきり意識はしていなかったんだけれども、日本やアメリカの一部って、物欲はほとんど満たされてるでしょ。心にゆとりができたから生まれる問題だと思うんですよ。だって“明日食う物どうしよう”と思っている人は、自分は他人に嫌われているのかどうなのか、なんて考えないですよ。もっと生きることに一生懸命になると思いますね。だから飽食の今、心の問題がテーマになる。『エヴァ』をやってたら、最終的にそこに行きついてしまった。様々な理由で描き切れなかったけど、本来のストーリー上の25?26話(最終回)に関しては、25話はプロットまでできてました。26話はプロットの段階で放棄してしまった。来年に発売するビデオとLDでは本来の25?26話を作り直しますが、26話に関してはビジュアル的にもう一度練り直しですね。思いつかなければ、あのプロットを分解してもう一回やりますけれど。TVでオンエアした25?26話は、僕のあの時点での気分がストレートに反映しています。だから僕の中では満足なんですよ。後悔はしていません

3月4日。『エヴァンゲリオン』25話のアフレコ終了後、最終回26話の収録を残してスタッフ、キャストによる“打ち上げ”が、東京·大久保にある録音スタジオ?タバックのそばで行なわれた。

「そのとき、まだ最終話の脚本が上がっていない。全部できたのは翌週ですよ。実質3日の作画作業です。本当は、表現としては絵に描いたものすら必要ないんじゃないかと思う。実際は、僕が出てしゃべってもよかったんです。それでもいけるはずだったけど、さすがに拒否された。セル画でない部分、絵コンテの絵をそのまま使ったのは、ワザとです。間に合わなかったとか、そういう問題じゃない。とにかく、セルアニメーションからの解放をめざしたんです。ただの記号論なんですよ、セルなんて。マーカーでアスカの絵が描いてあって、そこから宮村優子の声がすれば、もう十二分にアスカなんですよ。セルにこだわること自体が嫌になったんです。かといって別にCGに行くということではない。アニメーションは表現媒体として線画だけでも機能するんだ、と言いたかったわけ。“セルじゃないから完成品じゃない”とか“セルじゃないから手抜きだ”なんて文句をつけてくるアホウな連中に何か言いたかったわけですね。それは解放なんです。自分がもってる固定観念みたいなものを、とにかく破壊してくれと。“セル人間じゃないと人間として認識できない”というのを通り越して、フェティシズムにまでいってしまっている…。いちばん最初に試みたのは、16話で“線”にしゃべらせたときですよ。アニメーションはただの記号で構成されているものだから、最初からウソの世界でしょう。虚構なんです。誰もドキュメンタリーとは思わない。でもフィルムの中にドキュメンタリズムを入れてみたい――というのが僕なりのライブ感覚なんです。TVアニメで記号論を破壊する方法はめずらしいでしょうね。線画が出たときに、業界の一部の人間に手抜きと言われましたが、あれを手抜きと見る時点でもうダメです。あれを“表現”として狙っていることに気づかない、というより、観念がすでに存在していない。もっとも最終回では、ことば遊びの域を出ません。方法論としては、他にもあるんじゃないかとは思いますけれど…」

一部のコアなファンからは否定論も出た26話。もちろん本来のストーリーを描かなかったという点で、フラストレーションを感じたファンがいるのも事実だろう。パソコン通信などではストレートな“口撃”も多いと聞く。しかし一方で、この最終話が『エヴァ』の最高視聴率を記録し、普段アニメを見ない視聴者から“エヴァンゲリオンてすごいですね!”という声が届くのもまた事実である。

「パソ通やってる人間は頭が堅い人、多いです。自分の部屋で閉塞してやっているのに、全世界に広がっているイメージをもってしまう。でも、それって“情報”でしかないんですよ。検証する方法もない情報なのに、すべてをわかったような気になってしまう。その心地よさが落とし穴なんです。それに、情報に対する価値観までがマヒしてしまっていますね。あと秘匿性ですね。たとえば僕の名前を出して“庵野なんか死んでしまえ”と言いますよね。僕が横にいたらそいつを殴るかもしれないわけです。こういうことを言ったらパソ通では反論が来るでしょうけど、それって“便所の落書き”でしょう。名前を書く必要がないんです。それが延々と自分の部屋で続いている。システム的にはスゴイのに、いかんせん使っている人間がそれを使い切れていない。もちろんパソ通やっている人、全員がそうではありません。だけど、まともな人を見つけるのにすごく苦労するので、僕は今パソ通にかまっている暇はない。ただ、少しは世間を知り、現実に帰れと言いたい。たとえば25?26話がリテイクされるという話は、すでにパソ通にはガイナックスから流してある。これは正確な情報を流さないと、いいかげんな情報がひとり歩きするからですが、出したら出したで“金もうけ主義だ”というとんちんかんな文が来るんです。まるで経済論理がわかってないのと、そういうことを言うことが正義だと思い込んでいる自分の偽善に気づいていない。どっちかというと『エヴァンゲリオン』にはその否定要素しかないように思えるのに(笑)。自分の発想がものすごく幼稚だと気づかないから、アニメファンがバカにされるんです。自分の部屋から出ないからですよ。安全なところにしかいない。確かなものが何もないんですよ、アニメファンって自分の中に。だからアニメに救いを求めたりする。寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』ということばじゃないけれど、町へ出ていろいろな人に接触しないと。なぜ、僕にそれが言えるかというと、僕自身、何も自分の中にないことに気づいているからですよ。21年間ずっとアニメファンをやってきて、35歳になってようやく気づくんだから、僕もそうとうバカなんですけどね(笑)」

残念ながら誌面がつきた。聞きたいこと、語るべきことはまだまだある。NTでは今後も何回か庵野監督のことばを聞きたいと考えている。次号では別冊付録の形式で、再び監督の声を誌面に載せたいと思う。

 

もしあなたが監督と”対話”したいと思ったなら、NT宛にハガキか手紙でメッセージを送ってほしい。それは質問でもかまわないし、感想でも批判でもかまわない。誌面で”対話”する意識をもってさえいれば、監督はきっとそれに応えてくれるだろう(注)。

 

(注:この企画は、たしか実現しなかった)


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